平昌オリンピックに賭ける想い
平昌オリンピックにかけるアスリート人生、須貝龍アルペンスキーヤー26歳。
高校卒業前から単身でオーストリアへ渡り8年。
日本チャンピオンが目指すオリンピックという世界最高峰への最後の挑戦。 
いまやプロスポーツに限らず、海外で活動するアマチュア競技アスリートは珍しくない。
彼らが目指すのは世界最大のスポーツの祭典オリンピック。
サッカー日本代表選手やメジャーリーガー、五輪メダリストは、日本のメディアに取り上げられ、その海外での活躍も日常的に目にし知られているが、実際には、誰にも知られずに世界の活躍を目指して海外で活動する選手は意外にも多い。
なぜ知られていないか、それはメディアの偏った選手、競技のフォーカスもある。そして、今まではアスリート本人による情報発信もなかった。
しかし、いまやインターネットが普及し、SNSなどを通じて、世界中から自由に情報を発信できるようになってきている。その影響で海外で地道に活動するアスリートを応援する人も増えてきているのも事実である。そのファンやスポンサーの支援で活躍しはじめているアスリートも出てきている。一方で、実力はあるものの、ほとんど知られていないアスリートも世界には無数存在している。 
須貝龍、日本のアルペンスキーヤーとして、5種目中3種目で日本チャンピオンとして君臨し続けているアスリートも、日本ではあまり知られていない選手の1人だろう。
2020年東京五輪が決定し、冬季五輪のアスリートにとっては一層厳しい環境になっている。日本全体が2020年にフォーカスし、冬季五輪の競技はその反動で注目度が大きく下がり、競技やアスリートの資金不足につながっている。 

そんな中で、2018年の平昌オリンピックを最大の目標とし、アルペンスキー日本代表の須貝龍はアスリート人生をかけて、残り半年をどう過ごすか、真剣に考え、勝つためのプランを作っている。 
結果がすべての世界。勝てば官軍負ければ賊軍。

どんなに実力があっても良い人格をもち備えても、スポーツの世界は結果を出せなければ賞賛は得られない。しかも1番、金メダルじゃなければ、その賞賛はとても小さいものである。
特にマイナー競技においては、日本1位では、その知名度はなく、経済的なメリットはない。
世界で1位にならなくては、アスリートとして認められないようなものである。

それをわかっているからこそ、アスリートは世界一を目指す。それは日本に限らず世界のアスリートも同様である。スポーツ先進国との違いは、そのアスリートの環境である。大きくは3つ、若年世代の育成環境、トップアスリートのサポート環境、セカンドキャリアのサポート環境である。
日本には、これら環境が圧倒的にないのが現実である。例えば、アスリートには、社会保障は何もない。しかしアスリートにとって、アスリートはそれで生計を立てる職業である。職業アスリートには何の保証もなく、一般の人であれば学習し進学し就職する時期を、スポーツ競技に充てる。ケガ、引退後のリスクが非常に高いのはおわかりいただけるだろう。
アルバイトや仕事をしながら世界のトップを獲れるほど甘い世界でもない。
練習に時間を割くほど、成長はできるが、その時間を十分に確保できるアスリートはどれほどいるだろうか。そうするには多大な資金が必要になる。この資金面の問題は実際にアスリートにとっては最大の課題、重荷になっている。 
須貝龍とは

須貝龍。18歳の頃から単身でオーストリアへ渡り、海外レースを転戦し活動をしている。
現在の彼は年間1000万円程の資金を数社のスポンサー企業、地元の関係者から支援され、活動をしているが、世界の舞台で活躍するにはその資金では足りないのが事実である。
「今は世界ランキング39位まで来ました。平昌オリンピックに出るにはワールドカップで20位以内という基準があります。それにはまだ到達できてなくて、2017年8月から始まるシーズンで海外レースに参戦し、20位以内に入れなければ平昌オリンピックには出られません。」 

5種目中3種目で日本ランキング1位になっており、ナショナルチームに所属しているが、世界とのトッププレイヤーはもう少し先を行っている。 
個人競技特有の孤独な迷い

「海外へ単身で出て8年間、現地のプロチームに参加し、トップアスリートと一緒に練習を共にしてきました。しかし海外から来た日本人には、練習環境は与えてくれるものの、チームコーチ、サービスマン(ワックスマン)、フィジカルトレーナーは使わせてくれない。自分で雇って連れて行かないとダメなんです。悔しいけど練習環境をもらえるだけでもありがたいんです。」
「チームメンバーと同じ条件でできれば最高なんですが、自分たちの場合は、トップクラスの練習環境をもらえるだけでもありがたいし、日本では得られない。だから世界トップレベルのチームに所属し活動をしてきました。そして今までは専属コーチ1名を現地で雇って活動してきました。」

「正直迷いはあります。1名雇用する予算しか無い自分にとって、コーチが良いのか、サービスマンが良いのか、フィジカルトレーナーが良いのか。一般的にはコーチになります。もちろんコーチは重要なので、自分はコーチを雇用して活動してきました。しかし、僕達の競技はサービスマンもとても重要で、気候や環境で雪の質が大きく変わり、用品の選択、ワックスの種類、塗り方、これらが大きくタイムに影響します。ワックスの塗り方ひとつで確実にタイムは良くなるんです。それが自分にはいないので、勉強しながら自分で用品のメンテナンス、ワックスを塗って大会に挑んでいます。これは海外のトッププレイヤーではあり得ないことで、実力のあるサービスマンはトッププレイヤーについて年間を通じて一緒に活動しています。
彼らを雇用するには、そのギャラに加え、移動費、宿泊費も必要になり、シーズンを通じて雇用する場合は、300〜400万円は請求されるんです。彼らもそれが仕事ですから。」

「そしてシーズン中はワールドカップを連戦しながら合間に練習をするのですが、標高2000〜3000メートルで行う競技なので、体力の消耗はかなり大きく、回復には時間がかかります。そのコンディションをベストに保つことはとても難しい。これも自分で勉強しながらフィジカルケアを行っているので、大会後や移動が多いときなどは、圧倒的にコンディションが落ちてしまう。これも自分にとっては大きな課題です。」 
限りある予算を何に使うか

「いま自分にとって平昌オリンピックが最大の目標です。それに必要なものは世界ランキング20位以内に入ること。2016年シーズンは39位だったが、20位以内に入るのはそう難しいことではない。トップランカーまでかなりの僅差でこれらの選手が競っているんです。小さなミスさえなければ20位以内に入れる。それは感触でわかっているんです。
何度も何度も考えました。そして今年はサービスマンを雇いたい。コーチもトレーナーもほしいけど、平昌オリンピックに向けて、絶対に必要なもの、いますぐに確実にタイムを上がられるのは、サービスマンという考えに至りました。日常のトレーニングはもちろん大事だけど、平昌オリンピックに間に合わせるにはもう時間が迫っている。そう考え、今年はサービスマンを雇いたいと思っています。」 
その資金はどうするか

「いまオフシーズンで日本に戻ってきて、地元新潟で練習、トレーニングをしながら、スポンサー企業を回ったり、社長さんを紹介してもらったり、新潟と東京で営業活動をしています。しかし新しいスポンサーを見つけるには至っていません。他の競技、選手で支援をやってるから、いまは資金が出せる状況じゃないから、などなかなか良い返事をもらえず、時間だけが過ぎていることに、焦りを感じながら、来シーズンの海外遠征のプランやチームとの交渉、スタッフとの連絡を取っている状況です。」 
8月までに準備できなければならない状況

「次のシーズンは8月から南米に渡って大会に出場しながらポイントを獲得していく予定です。それまでに資金を調達し、サービスマンを見つけて、戦略を立てて闘っていくつもりです。専属コーチ、フィジカルトレーナーもあればもっと上位に行けるんですけど、すべてを追いかけている時間もないんです。普段はトレーニングをしているので、交友が拡がるわけでもなく、いまはスポンサー企業様や地元の方から紹介をいただいて、資金協力のお願いをして回っています。」 

須貝龍の人生は(幼少期)

どんな子どもだったか。 
コメント
新潟県出身で幼少期からスキーを始めて、中学校まではスキーと水泳を両方やっていました。
中学3年時には、全国大会で平泳ぎ200mで7位入賞。
その後、高校進学時にスキー一本に絞り、強豪校である八海高校に進学、
強豪新潟県において、高校1年生で県予選で優勝。インターハイ出場を果たしている。
しかし、その後は不運なケガに連続して悩まされ、高校3年までは半年ほどしか
スキーができなかったのである。
高校1年生のシーズン途中に足首の靭帯損傷、高校2年生ではシーズン前に膝の靭帯を損傷し1年間スキーができなかった。つまり、高校3年生になるまでに半シーズンほどしかスキーをしていないのだ。 
須貝龍の決断に背景

高校3年生の時、日本ではトップレベルに行ける自信はあったけど、このままではスキー選手として何もできずに終わる。これまで青春時代の大半をスキーにかけてきた彼にとって、そのまま高校で終わらせるという想いにはなれなかった。
そこで下した決断とは、「海外でスキーをして、それで終わりにしようと思いました。」そして彼は高校を卒業する前に、単身で海外へ行くことになる。
「不安を想像することが出来ていませんでした。言葉も特に話せるわけではなかったんですけど。滑りにもある程度自信はありました。ただ、これも人の滑りの上手い、下手を判断出来なかったこともあるんですけどね。」 

「日本の選手は、若いときは強いけど、大学、社会人となるほど、海外の選手に抜かれ、オリンピックやワールドカップでは勝てなくなる。その中で疑問に思うこともたくさんありました。それも海外へ行く決断に至った要素です。」 
海外に渡ってからの現実の厳しさ

「最初の2年は日本選手2人と日本人コーチ1人の4人で活動していました。しかし、自分がイメージする海外での活動ではないと感じだし、このままでは強くなれないと、3年目からは自分でオーストリアのコーチを雇い、練習やレースのアレンジも自分で行い始めました。しかし、そこで新たな大きな障害、言葉の壁にぶつかったんです。話を聞けたとしても、自分の意見が言えない。そうすると、相手もつまらなくなっちゃうんですよね。コーチとは密にコミュニケーションをとらなければならない。一緒にいる時間も長い。
コミュニケーションを取れずに毎日一緒に活動をすること、これは強いジレンマ、焦り、苛立ちなど、相当な辛い思いをしました。もちろんその状態ではスキーもなかなか上手くいかなかった。」 
辛さが先行する海外生活で、支えられたもの

「1年目から嫌になったのですが、父親に連絡をとると『1年では戻ってくるな』と言われました。一緒に動いていた選手やコーチとも、励まし合いながら。きつく言い合うこともありましたけど。そして本当に徐々に良くなっていきました。最初80位くらいだったのが、70位、60位、50位と、そしてリバースに入れるようになると一気にコース状況が良くなって1桁に入れるようになっていったんです。本当に少しずつ上がっていきました。どのアスリートもそうだと思いますが、家族の応援は本当に心強く、その感謝の思いや恩返ししたい思いが、何よりも自分の支えです。」

シーズン中に実に63レースに出場。しかもその多くがワールドカップ、FISレースやヨーロッパカップで、同レベルの選手がひしめき合うタフな大会ばかり。ヨーロッパをベースに置くからこそ可能な、戦い方だといえるだろう。そこで彼は8年間、闘い続けてきた。

「そして原動力はやっぱり恥ずかしさや情けなさですね。日本では有り難いことに同年代で上位の成績があるとスキーメーカーからサポートをしてもらえます。ウエアやワンピース、スキーなどの用具が毎年新しいのが貰えるんです。けど、ヨーロッパではナショナルチームに所属する選手でないと毎年新しい用具は貰えません。自分は毎年新しい綺麗な道具を身に付けて滑っているのに、ワンピースが破れてる選手より遅い。そんなことがとにかく恥ずかしかったし自分が情けなくなった。用具提供を受ける選手としてどうしても負けるわけにはいきませんでした。」 
その思いを胸に、強豪ヨーロッパでの活動をひたすら続けてきた

「食事は自炊です。その他方言の勉強をしたり、選手の家に行って料理を勉強したりしています。料理は節約のためです。逆に箸の使い方を教えたりもしますね。あっちの人は日本人はみんな寿司を作れると思っていたりするんですよね。あと、お祝い事にチーズフォンデュをしたり。お祝いなのにチーズとパンだけですよ!どれだけ質素なんですか、って思いました。」
「とにかく節約しながら、自分に投資をしてきました。冬季競技はお金がかかると言われますが、実際には、海外生活費、渡航費用、大会遠征費用、大会エントリーフィー、リフト代などです。それ以外に海外の強豪国、トップアスリートには、専属コーチ、サービスマン(ワックスマン)、フィジカルトレーナーが付いているのが一般的です。」 
日本のアルペンスキーヤーの金銭面の環境

テレビに出ることが少ないアルペンスキー。スポンサーを探す苦労は容易に想像出来る。
「僕の場合は、知り合いのツテを辿って何件も何件も当たっていく。契約が成立するということは「あなたに、いくら出しますよ」言ってくれる。この瞬間はうれしい。それで海外での活動を続けて来られました。」
一方で、全日本スキー連盟からの援助はほぼ受けられない状況にある。スキー連盟は予算の大半をジャンプやモーグルなど人気競技に充てる。そしてスノーボード競技も同じスキー連盟傘下でやっている。競技の数が多く予算もマイナー競技には回ってこない状況。代表合宿でも自腹での種目も多数あるのが実情だ。

現在、須貝龍はナショナルチームを離れ、全てプライベートで海外生活を送っている。
日本でやることも可能だが、勝つために日本を離れ、質の高い練習場所を海外に求め、海外の大会を転戦し、2018年に世界で活躍する道筋をたてている。 
須貝龍の夢
「高速系種目で世界を制覇したい。」

時速150kmにも達することがある滑降、急斜面を直下降に近い形で降り、時には50mほどもジャンプすることがある高速系種目は、広いコースと長い距離が必要で、日本では1998年長野五輪以来、長く大会すら行われることがなく、2014年4月に16年ぶりに日本での大会が復活した。

「海外では滑降の早い選手が一番人気があるんです。でも日本は違う。日本では活躍出来る回転が人気ですし、回転が得意でないとスキーを続けていくのが難しい。ジュニアには高速系が得意な選手もいっぱいいるので、日本のこの雰囲気を変えていきたいんです。」 

アルペンスキーは、回転、大回転、スーパー大回転、滑降の順に滑走スピードが上がっていく。日本選手は回転を得意としており、皆川賢太郎選手がトリノ五輪で4位に入ったのも回転種目だ。スーパー大回転、滑降を高速系と呼ぶが、これらの種目のナショナルチームは現在日本に存在しない。世界で活躍する選手がなかなか出てこなかったからだ。
日本のナショナルチームは、2002年のソルトレイク五輪を最後に実質的にはダウンヒルとスーパーGから撤退した。数少ない予算と人的資源を、より可能性の高い技術系種目に集中することによって、世界との差を詰めようという戦略だったのだ。
高速系種目で世界を目指そうとする選手にとっては、ナショナルチームへの道が閉ざされたことで道はさらにさらに険しいものとなり、海外で活動をしながら、平昌オリンピックを目指すしか選択肢がないのが現状だ。 
「もう少しで手が届く。目の前にあるこの平昌オリンピックに出てメダルを獲りたい。」
そして日本人でも高速系種目で勝てることを証明したい。それが今後のスキー界、
アルペンスキーヤーにとっても価値があると思う。そしてそれができるのは自分だと思う。
日本人は勝てないと言われてきたこの競技で世界のトップになりたい。
それだけを考えて平昌オリンピックを目指していきます。」 

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